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あずにゃんとEscapeキー

あずにゃん

新しいMacBookでは、キーボードからEscapeキーがなくなるらしい。

最初にそう聞いたとき、僕はただ、ふぅんと思っただけだった。Escapeキーなんてそんなに使うものでもないし、消えても困るものではないだろう。

「あ、また何か変なこと考えてましたね」

しかし、現実は時として予想外の景色を見せるものだ。今、僕の手元にある新しいMacBookは、女の子がEscapeキーの働きをしている。


「私がそのMacBookのEscapeキーです。よろしくお願いします!」

僕がMacBookを買ったとき、彼女は突然そのように挨拶してきた。腰まで届くかというような黒い髪を頭の両横で結んで垂らしている、小柄な女の子だ。なんだこいつ、と思う間もなく彼女が説明を始めたところによると、Escapeキーがキーボードからなくなる代わりに、付属の女の子がEscapeキーとして働くのだという。そんなことあり得ないだろうと思って彼女を試したのだが、僕が彼女に合図を送ると、MacBookの画面は本当にEscapeキーが押されたかのような振る舞いを見せる。

「分かっていただけましたか?」
「ああ、分かったよ。Escapeキーを押したい時には君に言えばいいんだね?」
「はい、そうです!」

元気よく応える彼女。

「でも、名前がないとちょっと声をかけにくいな。君はなんて言うの?」
「うーん、Escapeキーなのでこれと言って特別な名前はないんですが……。製造コードは『ナカノアズサ』となってます」
「じゃあ『あずにゃん』でいいかな。アズサの『アズ』を、あだ名っぽく可愛くした感じで」
あずにゃん……あずにゃん。いい響きですね。じゃあ改めまして、よろしくお願いします!」

こうして、僕と「あずにゃん」の生活が始まった。


女の子がEscapeキーであると言っても、そもそもEscapeキーはそんなに使うものでもないので、必然的に彼女の仕事は少なくなる。一番よくある出番はゲームを終了するときで、僕はタイトルから終了の項目を選んで終了するのでもいいと思っているのだが、ゲームで一通り遊んでいざ終わろうとすると、それまで横で画面を眺めながら、へぇ、とか、おぉ、とか声を上げていたあずにゃんが、期待に満ちた目で僕を見つめてくる。Escapeじゃなくても終了できるんだけどな、と思いつつも仕方ないかという気持ちでEscapeキーの入力をお願いすると、あずにゃんは待ってましたとばかりにEscapeのキーコードを発行して、ゲームを終了するのである。一瞬だけ画面が暗転してデスクトップに戻った後、あずにゃんはこちらを向いて、どうだ、やってやったぞとばかりに自慢気な笑顔を見せてくるので、まあ、こんな可愛い顔が見られるのであれば次もお願いしようかな、などと僕は考えてしまうのだった。

ゲーム以外でEscapeキーが必要になる場面は、日本語入力の変換を間違えた時が一番多い。変換の文節区切りがうまく認識されなかったり、開こうと思った漢字まで変換されてしまった時などはEscapeキーの出番となるのだが、しばらく一緒に過ごしているとあずにゃんの方も僕のそういった癖を飲み込んでくるようで、あ、またですねと言いたげな顔で促してくる。心の中を見透かされているような気恥ずかしさを覚えつつ、うん、間違えてしまったからEscapeキーお願い、と頼むと、してやったりという表情を隠そうともせず、誇らしげに変換をひらがなまで巻き戻してくれる。そんなあずにゃんを見ていると、なんだか心強い味方ができたような気がして、僕の心が温まるような感覚を覚える。


ある日、あずにゃんとEscapeキーを巡ってケンカをした。発端は僕がVimを使い始めたことで、最初の不慣れなころは何か操作をするたびにEscapeを押してNormalモードまで戻る羽目になり、いちいちあずにゃんに頼んでいた。突然仕事が増えたあずにゃんは嬉しそうで、僕が「あっ」という声を上げるたびに、Escapeを発行したくてたまらないらしく、猫じゃらしを前にした猫のように、うずうずした様子を見せていた。

しかし、僕がVimの操作に習熟していくにつれて、Escapeを使う頻度は減ってきて、代わりに<C-[>を使うことが多くなってきた。別に大きな理由はないのだが、やはりホームポジションから手を動かさずに入力できるし、自分のペースで打てるため、こちらの方が使いやすい。次第に、あずにゃんにEscapeキーを頼む機会も減っていき、あずにゃんはなんだか寂しそうな表情を見せるようになった。

「<C-[>はいいですね、いつも使ってもらえて。私もEscapeキーなんかじゃなくて、Ctrlになればよかったのかな……」

あずにゃんが時折こう呟くのを聞くと少し胸が痛んだが、<C-[>のほうがなんとなくしっくり手に馴染んでしまったこともあり、段々とEscapeキーからは疎遠になっていった。

そしてある日。僕が久しぶりにゲームをしようとすると、なぜか起動しなくなっていた。そんなはずはない、と思って何回か繰り返すと、どうやら起動しないのではなく、起動した瞬間に終了させれられているようだということに気がついた。もしかして、と思ってあずにゃんを見ると、顔をクッションに半分うずめて、怒っているような、泣いているような、どっちつかずの表情を少し見せた後、そっぽを向いてしまった。

あずにゃん、怒ってる?」
「別に、怒ってないです」
「でも、ゲーム……」
「さあ、知らないです。どうせVimの操作を間違えて、設定ファイルを壊したんじゃないんですか」

取り付く島もない。僕はゲームを諦めて、Twitterを眺めることにした。独創的なVimプラグインを書くことで有名な人が、今日もVimネタのツイートを繰り出している。

Vimはいいですよね、こんなに好きでいてくれる人がいて。私の出番なんてないんです」
「そんなこと……」
「私だって、最初の頃は仕事が増えて、大変だけど楽しかったです。Escapeキーなんて全然使われないと思っていたのに、突然主役みたいになって。ああ、Vimっていいな、Vimがあれば、Escapeキーでもこんなに使ってもらえて、話しかけてもらえるんだって、そう思いました」
「でも……」
「でも、モードを切り替えるのは<C-[>の方がやりやすいんですよね。Vimも最初からそのキーバインドがあるし、元からそういう物だったんですよ。勝手に調子に乗って、喜んでた私がバカみたいじゃないですか。結局Vimに踊らされてるだけで、そのVimにもこんなに熱心なファンの人がいる」
あずにゃん……」
「もう、ほっといてください。Escapeキーなんていらないんでしょう!」

僕は、それ以上何を言えばいいのか分からなかった。MacBookを閉じた後も、頭の中ではあずにゃんの言葉がぐるぐると渦を巻いていた。